「本当に、なんでもない。お前には関係ないから」
「それで俺が諦めると思う?」
見下ろしてくる瞳を、それでも美鶴は果敢に見返す。
「ツバサの事をあれこれと悪く言うような奴には、言いたくない」
相手が言葉に詰まってしまった隙をついて、肩の手を払い、脇を擦り抜ける。そうして机の上を片付け始める。
「美鶴?」
瑠駆真の問いかけにも手を休める事はしない。
「美鶴、今日はもう終わり?」
「帰る。もう遅い」
確かに、周囲は暗くなり始めている。
「帰るのか」
「じゃあ送っていく」
「いい」
聡の言葉をピシャリと遮る。
「一人で帰る」
「冗談だろ?」
「冗談で言っているように見えるのか?」
気迫を込めて睨みあげ、そうして急き立てるように二人を駅舎から追い出す。自分も外に出て、鍵を閉める。手が悴む。今夜も冷えそうだ。
「美鶴、やっぱり送ってくよ」
食い下がる瑠駆真を片手で押し留める。
「お前一人がついてくると、聡がうるさい」
「じゃあ、俺も行く」
一歩踏み出す聡へは鋭い視線。
「今日は、もうお前の顔なんて見たくない。ツバサの気持ちも、謝れと言う私の言葉も理解できないような奴となんて、一緒に帰りたくはない」
本当に見たくないと言いたげな不機嫌そうな顔。聡は生唾を呑む。
嫌われた? 怒ってる?
そんな表情の聡から視線を外し、美鶴は夕闇の中へと姿を消した。
マジで、怒ってる?
呆然と見送る聡の肩を、瑠駆真が叩く。
「自業自得だな」
「なに?」
「美鶴を怒らせた」
「俺が何を」
「詳しい事情はわからないが、美鶴は涼木さんを支援している」
「支援?」
「どういうものかはわからない。兄貴がどうのとか言っていたから、その辺りで美鶴が何か絡んでいるんだろう。たぶん涼木さんは、蔦と田代さんの関係を原因とした悩みを抱えていて、それを単独で解決しようとしている。それを美鶴は助けている」
「何で美鶴が?」
「わからない。でもたぶん」
言いながら瑠駆真は、美鶴が去った方角を見遣る。
「美鶴は涼木さんに、少なからず自分を重ねている」
ツバサの悩みは、コウを想うがゆえ。その姿に自分を重ねるとしたら、やはりそれは恋心。
瑠駆真は唇を噛み締める。
その恋の相手は、自分ではない。もちろん聡でもない。
脳裏に、薄色の長髪が揺れる。
少し前の美鶴なら、こんな他人の問題になど加担はしなかっただろう。少なくとも、ツバサを詰る聡に対して、あそこまでムキに反論などはしなかったはずだ。
だが今の美鶴は違う。ツバサの気持ちを理解し、助けになりたいと思っている。
昔の美鶴はそうだった。他人を思いやる優しさを持ち合わせていた。他人を理解できる人間だった。
その頃の美鶴に戻って欲しいと思っていた。昔の、卑屈な自分を真っ向から責める真っ直ぐな彼女に戻って欲しい。そう願っていた。
下町のアパートで、襖を隔てて瑠駆真は言った。信じないと。
人を見下して楽しむような姿など、拒絶して孤立して満足するような美鶴など信じないと言った。だって、本当に信じたくなかったから。他人を嘲笑いながら距離を置いて自ら一人になろうとする彼女の姿など、見ていたくはなかった。
だからこうやってツバサの為に動き、聡を責める美鶴の姿に、嬉しいという気持ちも沸く。
だが同時に、悔しいとも思う。
美鶴に戻ってもらいたい。戻したい。必ず戻してみせる。
そう誓った。決意した。だが、美鶴に昔の自分を取り戻させたのは、自分ではない。
霞流慎二。
彼女の瞳には、彼が居る。
瑠駆真は、ツバサを庇護する美鶴の姿に、素直に嬉しさだけを感じる事などできなかった。
悔しい。美鶴を戻すのは自分であって欲しかったのに。
想いが交錯して、言い争う聡と美鶴の仲裁もできなかった。
「重ねるって、何だよ?」
黙り込んでしまった相手の身体を揺する。我に返った瑠駆真は、無表情で聡を見返す。
「結局、やっぱり美鶴は優しさを失ってはいなかったという事だよ」
「どういう事だよ?」
「優しさというものがわかれば、簡単に理解できるとは思うんだけどね」
「なっ」
絶句する聡に嘆息する。
「君も、少しは他人の気持ちを理解する努力をした方がいい。でないと、美鶴の気持ちを引き寄せるどころか、どんどん突き放されてしまうよ」
「おい、待てよ」
呼びかけにも応じず、瑠駆真は歩き始める。
「なんだよ、それ。おい、瑠駆真」
「帰る。寒くなってきた」
「待てよ。なんだよ、自分だけわかったようなフリしやがって」
「フリじゃない。少なくとも、君よりかはわかっているつもりだ」
「なんだと?」
そう言う首筋を、北風が撫でる。まだまだ季節は寒い。
「おい、待てよ」
追いかけようとする相手を、肩越しの視線で押し留める。
「悪いが、僕も少なからず君には怒りを感じているんだ」
「え?」
「あの話を、美鶴の前でブチ撒けようとした」
「あ」
言葉に詰まる。
あの話。確かに聡はそう言った。美鶴とツバサは首を傾げた。
あの話。美鶴が、夜の繁華街をウロついているという、あの話。
「どっちみち、本人に問い詰めるしか方法はねぇんじゃねぇのか? だったら、本人のいる前でしゃべったって別にいいじゃねぇか」
「それにしたって、何も涼木さんの前で話す内容じゃない。それこそ変な誤解を招いたら厄介だ」
「じゃあ、どうするつもりだ?」
夜の繁華街の噂については、聡も聞いている。校内で大袈裟に広がらないのは、美鶴の母親が水商売をしているからだ。
母親の店に出入りでもしている姿を目撃されたのだろう。母親と一緒になって仕事をしているというのなら問題だが、どうやらそうではないらしい。
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